【引き際の大切さ】僕がサッカーを辞めた理由。
どうも、コウタです。
京都を拠点に完全独学のフリーランスデザイナーとして活動しています。2016年から禁煙をキッカケに始めた毎日ランニングは1,300日(2020年7月現在)を突破しました。
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本日は、僕の思い出話です。よければ聞いてください。
僕は小学校1年生からサッカーを始めて、大学1回生で現役を辞め、今は社会人のリーグで遊び程度にプレーしています。
一応、サッカーをやるからには、全国大会だとかプロだとかを目指すことを遠い目標には掲げていて、高校3年生の頃にはインターハイに出場することも出来ました。
ただ、僕がサッカーを辞めた理由は「この世界では勝てないと思った」からです。
高校3年の頃、50mを5秒台で走り、誰よりもシュートが強い自信があった。その点では、奈良県ではトップに近い選手だった自負はあります。
ただ、大学に進学して初めて、サッカーというスポーツが”戦術スポーツ”であることを突きつけられ、僕には自分の長所を生かす頭脳もなく、ここでは戦えないと決断させられました。
ということで今回は、「引き際の大切さ」僕がサッカーを辞めた理由についてお話ししたいと思います。
努力と共にあった、順風満帆のサッカー人生。
僕はサッカーがとても下手くそです。お世辞にも上手いとは言えません。
完全に身体能力をバリバリに生かし、50mを5秒台で走り、威力の強いシュートを打つ高速戦車のような存在で、負けん気の強さで突進していく様から「デストロイヤー」と名付けられたこともありました。
要するに、ただのフィジカルモンスター(脳筋バカ)です。
足元でゴニョゴニョと器用にボールを触ったりすることは出来ないし、前にポーンとボールを蹴り出して、相手選手を走力でぶっちぎるシンプルイズベストなプレースタイルでした。
このスピードという身体能力のおかげもあり、小学校・中学校では県の強豪校でレギュラーになり、高校生では1年生からトップチームのメンバーに選んでもらうことが出来ました。(監督のお気に入りになっただけ)
高校1年生の頃に、当時高校3年生だった日本代表の岡崎慎司選手と、同じピッチでプレーをしたのはちょっとした自慢です。
高校3年生の頃には、奈良県で優勝してインターハイに出場しました。
ただ、当時は奈良県でトップに近い選手だったと自負してる僕に、特待生に関する大学からのオファーすら一切ありませんでした。(もちろんプロなんてあり得ない)
元々、サッカーが上手くはない僕は、この頃から「僕はこの世界では勝てない」ということが確信に変わり始めました。
最後の悪あがきを見せたサッカー人生。
小学校から続けて来たということもあり、当時はサッカー以外にやることもなく、他に夢もなかった僕は、高校時代の最後の悪あがきでセレクションを受けることを決めました。
セレクションとは、大学の練習会に行って大学生に混じってプレーし、自己アピールする機会のことです。(ここでいい結果を残せばオファーが貰える可能性があります)
もちろん結果は「不合格」
一緒にセレクションを受けていた選手は、そのセレクションに合格し、大学卒業後はプロに進み、今も現役のプロサッカー選手として活躍しています。
僕はというと、指定校推薦(勉強のほう)で進学した大学で、正直「どっちでもいい」という感じで、サッカー部に入ることを決めました。
チームとしては大学Bランク。でもそこには、超有名高校から推薦でやって来た同年代の選手達がいました。
そこで僕は衝撃を受けました。
僕のサッカー人生の引き際。
大学で一緒にプレーした同年代の選手達に、僕はすぐに圧倒されました。
誰よりも足が速くても、相手をスピードで抜き切ることが出来ないディフェンス技術と、どれだけシュートが強く、シュートを打つことが出来ない組織力。
サッカーというスポーツが「戦術スポーツ」であることを突きつけられ、僕は成す術がありませんでした。
足の速さを買われ、ポジションをコンバートしたり、監督直々に僕を指導してくれたりと、なんとかサッカーで生き残る方法を模索しました。(監督には好かれがち)
が、高校時代に染み付いた、根性サッカー(頭を使わない)が抜け切ることなく、サッカーで個人として挫折を知りました。
サッカーを続けても、この先ずっと趣味の域を越えないことを悟り、大学中退と共にサッカーの現役を終えました。
僕が選んだ道で繋がる。
サッカーを辞めてから、色々と僕の人生は色んなことが巻き起こり、僕は今デザイナーをやっています。
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そんな僕に、昨年、大学時代のサッカー部の友人から連絡がありました。
彼は僕が大学を中退してすぐ、大学2回生の頃にプロからのオファーをもらい、現在も現役のプロサッカー選手として活躍しています。
「デザインの仕事お願い出来ない?」
30歳を越えたプロサッカー選手としての、セカンドキャリアを考えるべく、新しく事業を始めようと考えていたところだったそうです。
そこで、僕のデザイナーとしての活動を見てくれていて、仕事の依頼をしてくれたんですね。
大学のサッカー部時代、僕は特待生だった彼の才能に劣等感を感じてました。たった1年という短い大学生活の中でしたが、サッカーの練習の時はよく一緒に話してた印象です。(本当にお互い薄っすら覚えてる程度)
僕は当時、彼にサッカーで圧倒され、加えて僕からサッカーを取られれば、僕には彼に勝るものが何も残らなかった。(勉強くらいか)
でも、デザインという道に進んだことで、今はサッカーがなくても”デザイン”がある。
そうして今、サッカーに進んだ彼と、デザインに進んだ僕が、それぞれが選んだ道で対等に繋がりました。
僕の中で少し嬉しかった瞬間です。
劣等感を”別の道”で力に変える。
僕は劣等感の塊のような人間で、それを人前には絶対に出さず、人から見えないところでコツコツ努力するタイプですが、やっぱり報われないことも多いんですね。
劣等感が、劣等感で終わってしまうことだってあります。というかそれがほとんどです。
僕はサッカーという人生の引き際を見つけ、そこで感じた劣等感をパワーに「自分の輝ける場所」を探しました。
その結果が”デザイナー“となりました。
僕はまだ、輝いているとは到底言えないけど、過去に劣等感を感じた人たちに「頑張ってるね!」「楽しそうな人生で羨ましい!」と言ってもらえることが少しずつ増えてきました。
売れないデザイナー時代、色んな人にバカにされた僕はもういません。少しずつ信頼を積み上げてきて、今があります。
夢や希望を叶えようとすると、報われないことが多すぎる世界であると思いますが、劣等感を力に変えて、諦めずに進んで欲しいなと思います。
僕もまだ道半ばですが、これからも夢を追っていきたいと思います。一緒に頑張りましょう。
僕の思い出話、最後まで聞いてくれてありがとう。
では、またね。