【祈ることの本質】毎日ランニングで僕が北野天満宮(神社)に通う理由。
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【祈ることの本質】毎日ランニングで僕が北野天満宮(神社)に通う理由。

2020.10.09
2020.10.09

どうも、コウタです。

京都を拠点に完全独学のフリーランスデザイナーとして活動し5年目となります。2016年から禁煙をキッカケに始めた毎日ランニングは1,300日(20207月現在)を突破しました。

外出自粛で運動不足やストレス発散が出来てない方は、僕が毎日欠かさずやっているダイエット効果バツグンの自宅トレーニングをまとめたのでチャレンジしてみてください。また、外に出て運動する方へ、これからの時期持っていると便利な「コスパ最強のランニンググッズ」を紹介したのでこちらも合わせてご覧ください。

僕は約4年前から毎日欠かさずランニングを続けて、約1300日ほどになります。(2020年10月現在)

京都に住んでいるので、ランニングを始めた当初は「二条城」の周りを走っていたのですが、3年ほど前から「北野天満宮」に目的地を変えました。

北野天満宮の大きな鳥居をくぐり、境内に入るまでの石畳の道を歩いて行くと、ポツポツと牛の置物が置いてあるんです。(天神さんと呼ぶそうです)

皆んなその牛の置物を撫でていくのですが、これには理由があって、「撫でた部分が良くなる」ということなんですね。

「頭が良くなりたい人は牛の頭を撫でる」「腰痛を改善したい人は腰を撫でる」といった感じです。

僕は毎日のように牛(天神さん)の前に来て、自分が良くなりたい部分を撫でて帰っているのですが、3年目にして、一切信仰心のない僕が「祈り」に対して気付いたことがありました。(今はコロナの影響で直接は撫でていません)

ということで今回は、「祈ることの本質毎日ランニングで僕が北野天満宮(神社)に通う理由についてお話ししたいと思います。

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毎日ランニングで僕は北野天満宮(神社)に通う。

走る場所を二条城から、北野天満宮に変えた1番の理由としては「1本道」だからです。

毎日5キロほど走るのをノルマにしているのですが、二条城の場合だと外周を走ることになるので、同じ場所をグルグル走らないといけないんです。

その反面、北野天満宮の場合は、ちょうど折り返し地点にあたるので、往復すれば終わりって感じなので、同じ場所を走るのが苦手な僕にとって、性格に合ってるんですね。

最初はそんな理由で北野天満宮に通い、自然とそこでお祈りをして帰るのが日課となりました。

よく考えたら、僕は小さい頃からおじいちゃんとおばあちゃんに連れられて、よく北野天満宮に来ていて、牛を撫でる理由なんかも教えてもらったりしていた、すごく思い入れのある、僕にとっての思い出の場所だったんですね。

信仰もなければ神頼みにはもっと興味がない。

毎日お祈りをして帰るんですが、僕には信仰もなければ神頼みなんかはもっと興味がありません。

ただ、おじいちゃんとおばあちゃんに連れられて来た時に、教えてもらったことを今も続けているという感覚だけなんです。

正直、僕はお墓まいりとか、法事とかの行事とかに関しても一切の関心がなく、「なんでやる意味があるの?」と思ってるくらいの人間です。(お墓は人一倍キレイに掃除しますが)

その理由として、人が亡くなった時とかも思うんですが「存在を忘れた時が本当の死」だと僕は思っていて、僕が忘れさえしなければ、ずっとその人は存在すると思っています。(中学の時に亡くなったおじいちゃんも、きっと僕の背中でいつも見てくれています。多分)

そんな考え方もあるので、僕は「信仰」や「神に祈る」ということが全く理解出来ないんです。

信仰者が神に祈ることとは一体なんなのか。

海外の方を見ていたりすると、信仰の都合で食べられないものがあったり、宗教間で戦争が起こったり、そんなことはおそらく日本人の多くは(無宗教の人が多いので)理解出来ないと思います。

僕のおじいちゃんやおばあちゃんも、法事の時にお坊さんに合わせてお経を唱えたりしてるんですが、正直なんのこっちゃ分からないです。(ナンミョーホーレンゲーキョーって言うてます)

祈ったところで何も変わらないし、結局、神様や仏様にお願いしても、それが叶う叶わないの根拠があるのかも立証出来ないですよね。

宗教の思想を押し付けられたり、駅前でよく聖書を配ってる方々を見ると少し怖くなったりもします。

そんな宗教的価値観を持つ中でも、僕が1つ言えることは”祈る姿は美しい”ということです。

毎日祈ることで僕なりの「祈ることの本質」を見つけた。

僕がランニングに行くのは基本的に夜なので、北野天満宮の境内は閉まっています。

なので必然的に、天神さんを撫でて(お祈りして)帰ることになるんですが、これを3年ほど続けて来て、僕にとって祈るとはなにかが少し分かって来た気がします。

それは「祈ることで心を落ち着かせる」ということです。

祈ったら叶うとかそういうことではなく、自分の思っていることを心で唱えることで、自分自身とコミュニケーションを取るという感覚です。

もう1つ、「〇〇が叶いますように」とか「健康で入られますように」と心で唱えることは、神様や仏様にそれを叶えてくれとお願いする行為ではなく、神様や仏様に宣言することで自分自身のケツを叩くような感覚です。

僕は自分の仕事のスキルが上がるように、毎日、牛(天神さん)の脚(手)と頭を撫でて帰っていたのですが、それは「明日もスキルを磨くために精進します」という宣言になってるということです。

誰かがケガをした時に祈る「〇〇の脚が良くなりますように」「手術が成功しますように」も、そこに対して協力出来ることは全力を尽くしますという宣言なんです。

僕にとって「祈ることの本質」は、神頼みではなく、自分自身の夢や願望を、神様に宣言することだったんです。

要するに、投げやりな神頼みではなく、自分の現在地と夢や目標を確認するために、僕は毎日神様の前で祈って(夢や目標を語って)います

何かに負けそうになった時は、そんな風にお祈りをしてみてください。(きっと少し心が軽くなります)

一緒に頑張りましょう。

では、またね。

WRITER
KOHTA FUKUI / Freelance Designer
KOHTA FUKUI
Freelance Designer