同じ喜びを分かち合うよりも、同じ痛みを分かち合うことで分かり合える。
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同じ喜びを分かち合うよりも、同じ痛みを分かち合うことで分かり合える。

2021.09.04
2021.08.22

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おはようございます。FOURTEENのコウタです。

京都を拠点にフリーランスデザイナーとして活動しており、毎日休まず続けている、ランニングやブログを通じて感じた「継続は力なり」の大切さを発信したりしています。

京都を拠点に完全独学のフリーランスデザイナーとして活動し6年目。2016年から禁煙をキッカケに始めた毎日ランニングは1,464日、毎日ブログは242日を突破。(2020年12月31日現在)

自分で言うのもなんですが、僕はまだ自分の周囲の人間よりは苦労して生きて来たなって今になって改めて思います。

少なくとも18歳から22歳という、若い間の貴重な自由期間を僕は家族の為に捧げて来て、人生においてたった1度も、遊ぶとか、自由とか、そういう余白を経験して来れなかったと思うからです。

ということで今回は、同じ喜びを分かち合うよりも、同じ痛みを分かち合うことで分かり合える、というお話をしたいと思います。

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僕が感じる同世代の人間とのギャップ。

冒頭でお話ししたような期間に、別に遊びたかった訳ではないんですが、家族のために全ての時間を費やして、手に入れた収入も全て渡して、自分の自由なんてものは1つもない時期がありました。

そん中で、同世代の友人達は一人暮らしを始めたり、バイトをして好きなものを買ったり、色んな遊びや自由を経験していました。加えて彼らは、大学や専門学校に通って学歴というライセンスを保険として取ることが出来たんですね。

一方僕は、自由もお金も、その生活を続けた先の保証も何もないような状況で、当時はただ周囲に対して劣等感を感じていて、不安と、なけなしの反骨心のような感情以外なにもありませんでした

いくら「いつか見てろよ」と心で思っていても、自分に与えられた時間は自分の時間では無かったので、どれだけもがいても、与えられた時間の中で生きることしか出来なかったんです。

同じ喜びを分かち合うということ。

そんな中で、友人達の話を聞いていると「あの時あんなことして楽しかったよなー!」という話をよく聞くんですが、僕にそんな時代は存在しないので、何を言っているのか分からないし、当時に経験してこそ楽しいことなので、今は羨ましいとも思えません。

そんな「旬」の様な思い出の一部を持っていない僕にとって、同じ喜び(楽しさ)を分かち合うということが出来ないのは、やっぱり少し寂しい気持ちになります。

僕は外見がちょっとヤンチャそうなので、人からよく「めっちゃ遊んでる人やと思った!」って言われるんですが、ホントにそういう遊びの経験がないと伝えると、人は見かけによらないねってことをいつも感心してもらえるんですね。

そんなリアクションから見れば、僕が少なからず羨ましさを感じていたその時代を我慢して、苦労に置き換えていたことが、未来の投資に繋がっていたんだと思える瞬間だったりして、少し心が救われた気持ちになります。(だけど寂しいことには変わりないんです)

同じ痛みを分かち合うことで分かり合える。

そんな中、なかなか僕の苦労を同じ目線で分かり合える人っていなくて、いくら僕が辛い経験をしていた時期にサポートしてくれていた人でも、同じ痛みや屈辱を味わっていた人なんて、たったの一人もいないからです。それは、家族でさえも同じです。

でも、この世の中にはたまーにいるんですよね。僕と同じような感覚で「自己犠牲」をやり続けていて、どんなことにもめげずに信じて突き進んで、心が黒く塗りつぶされそうな状態でも前を向き続けて来ている人が

そういう人と時間を過ごしている時に、僕は「安心感」を得られます。(年齢とか性別とか関係ないです)

喜びを分かち合う、要するに楽しい時間を共有することでは安心感って得られないんですよ。だって何のリスクもない楽しいだけの時間を過ごしているだけのことなんだから。

一方で、痛みを分かち合う、要するに苦労を共有することが出来る人の方が、その経験はやっぱり信頼感や安心感に変わるし、「あの時楽しかったよね」なんかよりも、「あの時苦しかったよね」を言える関係の方が、僕は分かり合えると思うし、絆も深まると思っています。

僕にとっての繋がりは「痛みを共有出来る人」から始まる。

そう考えた時に、僕は「痛みから逃げない人」としか深く繋がってはいけないんだろうなと、つくづく感じてしまいます。

簡単で分かりやすい例えで言うとすれば、皆んなで掃除しようってなった時に、僕が「トレイ掃除一緒にやろう!」と誘った人間が、「嫌やー汚いもん!」なんて言い出したら、僕はその人とは一生繋がることはないと思います。

僕は過去に、心が閉鎖した暗い世界で生きて来た人間なので、そういう部分がすごく敏感になってしまっているんですね。で、人ってある意味ですごく薄情な人間なので、そんな感情ってポロっと出ちゃうんですよ。

表面的にはいい格好をしていても、いざとなったら保守に走るような人をこれまでに沢山見てきました。でも、そんな人間関係って僕にとって必要ないんですね。(というより一緒にいるとギャップで疲れてしまうんです)

いやらしい言い方になるんですが、そういう一面を推し測ることが出来る基準の1つとして、僕は「痛みを共有出来る人」から始まると思っています。

楽しいことを共有することは簡単ですが、痛みを共有することは難しい、でも、それを共有出来た時に初めて自分の心が落ち着く場所が生まれるんだと感じました

皆さんの周りには、楽しさだけではなく、過去を含め、痛みを共有出来る仲間がいますか?改めて考えるキッカケになれば嬉しいです。

一緒に頑張りましょう。

では、また明日。

WRITER
KOHTA FUKUI / Freelance Designer
KOHTA FUKUI
Freelance Designer