言葉の暴力とは「暴力的な言葉」でなくても凶器になり兼ねる。
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言葉の暴力とは「暴力的な言葉」でなくても凶器になり兼ねる。

2021.11.05
2021.11.01

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おはようございます。FOURTEENのコウタです。

京都を拠点にフリーランスデザイナーとして活動しており、毎日休まず続けている、ランニングやブログを通じて感じた「継続は力なり」の大切さを発信したりしています。

京都を拠点に完全独学のフリーランスデザイナーとして活動し6年目。2016年から禁煙をキッカケに始めた毎日ランニングは1,464日、毎日ブログは242日を突破。(2020年12月31日現在)

僕が基本的に『誰かに話を聞いてもらう』ということはあっても、『誰かに道を示してもらう』ということはしません。

きっと僕は自分の信念に相当な自信があって、話す前から既に答えがあった上で「聞いてほしい」ということだけなんだと思うんですが、そういう性格を作ったのは環境の問題だと思っています。

ということで今回は、言葉の暴力とは「暴力的な言葉」でなくても凶器になり兼ねる、というお話をしたいと思います。

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フリーランスデザイナーという孤独だった世界。

僕がデザイナーを目指した約10年前。当時は「フリーランスに信用はない」みたいな風潮で、社会に出れば『弱肉強食』を強いられるような時代。

そんな時代の中で、心が休まる場所なんてものは存在しないと思っていたし、常に心を尖らせて「どうせこの人達も自分を利用しようとしてるだけだ…」みたいな不信感を心のどこかで抱きながお仕事をしていたのを覚えています。

そらそうですよ。僕はフリーランスで、そんな僕のような働き方には信用がないと言われていた時代なので、加えて相手は組織なので、僕を裏切ろうと思えば簡単に切れてしまうような環境で僕は戦っていたからです。

いくら信頼を勝ち取ろうとも、僕のようなスタイルのクリエイターの仕事内容では、著作権があやふやになるようなことも多いので、デザインデータを渡したら最後、その後それがどんな風に使われていても僕には知る術がありません。(実際に過去にそういうこともありました)

自立して世の中に出てみて沁みる「人の温かさ」

少しずつフリーランスという言葉が浸透してきた中で、いろんな方からの偏見みたいなものも消えて、フリーランスという生き方がリスペクトされる部分も増えて、僕にとって少しずつ生きやすい世の中に変わってきました。

ここ最近は経済的にも自立出来るような環境になり、信頼を積み重ねてきたようなクライアントさんとは、仕事上のお付き合いという垣根を越えて、1人の人間として繋がることも出来るようになって来たんですね。

僕が辛い時、困っている時には友人だけじゃなく、クライアントさんから「一緒にご飯食べにいきましょう!」とか、お仕事の打ち合わせが終わったら「最近どうですかー?」といろんなお話を聞いてくださったりするんです。

これまで、社会に出たら『弱肉強食』だと思っていた僕の価値観が少しずつ溶けていくような感じで、こんな関係を築いてくださるクライアントさんを勝たせてあげたいという気持ちがどんどん強くなりました。

僕は今「崖の上で立ち尽くしているような状態」である。

結局、人と人をより強く繋ぐものというのは決して『血(家族)』だけではなく、もしかすれば僕が今、クライアントさんとして接している方の血を辿っていけば、同じ血に辿り着くかもしれないってこともあると思います。

そう思えるくらいに、『信頼』とか『フィーリング』とかってすごく大切なことだと思うんですね。

正直な話をすれば、僕は今メンタル的に『崖の上で立ち尽くしているような状態』で、一歩間違えれば足を踏み外して落ちてしまいそうになるようなところまで来ていたりします。

そんな時に心無い言葉をかけたり、行動をしてくる人間もいる中で、いつも寄り添ってくれるのは友人やクライアントさんなんですね。お互いがリスペクトし、お互いが倒れられると困る存在なので、必死に支えようとしてくださるんです。

いろんな働き方があるこの世の中で。

いつだって人は『新しいこと』を理解しようとはし辛いし、それを取り入れようとする努力もしにくい。場合によってはそれを悪だと外へ追いやろうとすることだってあります。

僕はいつも「人と違う生き方」をして来たからこそ、そんな孤独をずっと抱えて生きて来ました。最近は『多様性』という言葉がそこそこ認知されて来たとはいえ、まだまだ新しい生き方をしている人への理解っていうのはまだまだ薄いと思うんですね。

そりゃそうですよね。やったことのない人からすれば、僕らの気持ちが理解出来ないっていうことは理解出来ますもん。(反対の立場のことを僕が分からないように)

そんな中で『協調性』と言われたとしても、僕が押し付けられている協調性は、これまでの時代の中で当たり前だった協調性なわけで、これから変わっていくことだったりすることもあると思うんです。

僕は僕なりに、贅沢もせずに一生懸命に生きている中で、そんな言葉を凶器に感じることもあるし、そんな環境で生きていかないといけないのであれば、もう誰も僕に触れてくるな(その代わり僕もあなたには触れないから)ってなって来たんですね。

理解してくれる人は沢山いるんですが、凶器をチラつかせてくるひとに理解してもらう努力をする時間は僕にはもうありません。そんな時間があるのであれば、僕を求めてくれている人への時間に使った方が有意義だと思えました。

一緒に頑張りましょう。

では、また明日。

WRITER
KOHTA FUKUI / Freelance Designer
KOHTA FUKUI
Freelance Designer