自分が一般的な倫理感や道徳心を貫こうとしても弾かれる時に感じること。
おはようございます。FOURTEENのコウタです。
京都を拠点にフリーランスデザイナーとして活動しており、毎日休まず続けている、ランニングやブログを通じて感じた「継続は力なり」の大切さを発信したりしています。
京都を拠点に完全独学のフリーランスデザイナーとして活動し9年目。2016年から禁煙をキッカケに始めた毎日ランニングは2,570日、毎日ブログは1,340日を突破。(2023年12月31日現在)
僕は一般的な教育を受けてこれまで生きてきた中で、常識という言葉は好きではないのですが、あまりにも「常識的に考えて」が合わない人がいたりします。
そういう特殊な価値観を持っている人は「感覚」という言葉を多様したりするんですが、いつしか僕自身がズレてしまっているのかを疑うようになってしまいました。
ということで今回は、自分が一般的な倫理感や道徳心を貫こうとしても弾かれる時に感じること、についてお話したいと思います。
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教科書なら学ぶことが必ずしも正しいとは言えない中で。
僕は今35歳で、生まれは平成元年なのですが、皆さんの幼少期には「道徳」という授業はありましたでしょうか?
今でも覚えてる道徳の授業の中で「バキュームカーのお仕事をしているお父さんの話」みたいなのがあっなんですよね。
ご想像の通り「お前の父ちゃんウ◯コ臭い」みたいなことで友達からいじめられてるという話だったんですが、当時から胸糞悪かったような、そんな道徳を道徳と僕は感じています。
ただ一方で、倫理的とか道徳的といったことについては意見が別れるということもあって、教科書にも載るような当たり前を基準にして意見したとろこで「人は人」と言われたら終わりな訳なんですよね。
体罰を許容出来る感覚と絶対に許せないという感覚の対立。
それと似たような感覚として、僕は恐らく人と違う感覚を持ってると思われるんだろうなと感じることのテーマに「体罰」があると思います。
僕は昔から、父親からも怒られる時は頭を叩かれてたし、サッカーチームの監督やコーチからも(あまりにも僕の行動がひどい時に限っては)体罰を受けることがありました。
で、昨今は「体罰は絶対に許せないこと」として、学校の先生が生徒の身体を少しでも押すレベルのことであろうとも、それをビデオで撮っては退職させられる先生が気の毒で仕方ありません。
そんな僕は「体罰が必ずしも悪だとは思わない派の人間」で、あれだけ痛かった体罰に対しても僕は「愛」を感じ、あの時本気で叱ってくれたからこそ気付けたことが沢山あったと感謝しています。
それぞれの「常識」を伝え合ったところでキリがなく悲しい。
もちろん僕は「体罰を容認しろ!」みたいなぶっ飛んだ意見を押し付けることはありませんが、僕が感じ一般的なこととして自分の意見を伝える様にしています。
ただ、そんな基準で当たり前のことを言ってる反面、僕は完全に感覚的な人間ではあるんですが、世間に倫理・道徳の感覚を合わせた上での感覚的な人間だと思っています。
僕の世代で受けた教育を、なんとなくの言葉で形容するとすれば「わきまえる」ということが出来る人だと思っていて、僕はそれが「思いやり」と表現されると思ってるんですね。
こういう気持ちや感覚を持ち合わせてない人と幾度となく衝突し、その度に分かり合えず疲弊し続けていたんですが、これからの人生の中で僕はもうそういう人と関わらないことに決めました。
「思いやり」を自分に都合よく書き換える人との決別。
どうしても人間は「欲」というものにその時々で左右される生き物だと思っていて、特にそれは金が絡んで来た時に特に揺れ動くものだと思います。(腹が減ってる時は飯とかも)
もちろん僕自身も、そういった状況の中で自分自身を見失いそうになる瞬間はあるのですが、これまでの人生の中で倫理感や道徳心がブレることはありませんでした。
「前とは言ってることが違う」ということは守るべきものが変わりゆく中では仕方なくある中で、その奥の奥にある感覚がブレることはあり得ないと思っています。
それはきっと、人の心が欲にまみれた時にこの感覚から失っていくことだと思うし、そこで生まれるのが自分に都合よく「思いやり」を書き換えていくという瞬間だと感じました。
僕はそんな人間を「汚い人間」だと思う中で、いつまでもあの時「バキュームカーのお仕事をしているお父さんの話」を、幼少期の頃から変わらない感覚で受け止められる人でありたいと思います。
一緒に頑張りましょう。
では、また明日。