日本伝統の宗教行事に触れて僕が感じること。
おはようございます。FOURTEENのコウタです。
京都を拠点にフリーランスデザイナーとして活動しており、毎日休まず続けている、ランニングやブログを通じて感じた「継続は力なり」の大切さを発信したりしています。
京都を拠点に完全独学のフリーランスデザイナーとして活動し7年目。2016年から禁煙をキッカケに始めた毎日ランニングは1,830日、毎日ブログは610日を突破。(2021年12月31日現在)
僕の身近なところで不幸事があり、僕はいい大人になって久しぶりに法事というものを経験しています。
そこではお坊さんの説法なんかを聞いたりもするんですが、その中で色々と考えることがあったりするんですね。
ということで今回は、日本伝統の宗教行事に触れて僕が感じること、についてお話ししたいと思います。
ほとんどの人が当たり前と感じている礼儀とは。
今回の法事で、お坊さんから聞いた話の中で衝撃的だったことの1つは「納骨の儀式の際に骨壷に足から順番に入れていくというしきたりに特に意味はない」ということでした。
あれは葬儀屋さんが「ちゃんと納めてまっせ」という厳かな感じを見せるために作ったパフォーマンスで、それを別の葬儀屋が「うちもやろう」みたいな感じの流れで全国的に主流の礼儀に変わってきたみたいです。
そういう意味で、世間一般でいう礼儀とされているものは、我々が勝手に作り出されたものに染まっているだけの話だったりするので、意味があるものかないものかは分からないことが多いですよね。
僕は無宗教で儀式には1ミリも興味がない。
ちなみに僕の母親の家系は仏教で、なんとか宗というのまでは分かりませんが、法事の際には「南妙法蓮華経」という言葉が繰り返し唱えられています。
仏様のありがたい話なんてものに僕は1ミリも興味がないので、ああいう行事の時は「足が痺れない工夫」というを考えたり、仕事のアイデアを考える時間に使ってたりします。
それくらい僕は無宗教で、信じるものは自分で見たものと自分の心だけといった感覚で生きているので、そういう儀式的なものの瞬間は自分なりの想いを持って接するようにしています。
京都の人はそういうのを強く重んじる人が多いんですが、そんな礼儀作法知らねーよって感じで自分の想いをしっかりと貫いて持つように心掛けています。
お坊さんだって現代に生きる人間だった。
チベットの山奥に住む修行僧クラスになって来るとどうなのか分かりませんが、日本のそこいらのお坊さんにおいては僕の中では「普通の人」だと思っています。
無宗教の僕からすれば「そこに何もない」という部分に信仰を掲げているわけですから、スピリチュアルを通り越して、言い方をすごく悪くすれば「形のないもの(意味をなさないもの)」を売っているからですね。
精進料理では「お肉は食べない(殺生をしない)」ということみたいなんですが、自分がその現場を目撃していない場合のお肉は食べれるといったビーガンとかベジタリアンよりもガバガバルールだったりするみたいです。
実際に僕の知り合いには夜はクラブでDJをやっているウェーイ!系のお坊さんもいたりするので、職業がお坊さんなだけで一歩外に出れば中身は現代に生きる同じ人間なんです。
形式ばってそれっぽいことを言うのは嫌い。
僕が何を言いたいかというと、自分ルールがガバガバな人間誰しもに言えることですが、仕事だからといってそれっぽいことを形式ばって言われるのはあんまり好きじゃありません。
どんな人が徳が高い人なのかは分からないのですが、本当に極めているお坊さんに出会ってみたいと思うくらい、なんだか少し汚い世界に見えてしまうのは僕だけなんでしょうか。
お布施の金額で一喜一憂したり、その金額をよその家庭と比べたりとかって話を聞いていると、なんだか人の生き死にに関してが別のものに変換されているような気もして気持ちが悪いです。
そういうこともあって、僕はいつでもその人を思う気持ちがあれば、どこにいても、何をしていても伝わるものだと思っているので、儀式というものに対しては特段何も考えないこととしています。
みんながやっていることを真似するってことも大人には必要なシーンもありますが、僕はまだまだ心が捻くれたクソガキだったりするので、心の中では「あー意味ねぇ…」と思って自分なりのスタイルで想いを伝えていこうと思います。
一緒に頑張りましょう。
では、また明日。