学びとは「知識」を得ることだけではなく「感覚」を養うことにも繋がる。
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学びとは「知識」を得ることだけではなく「感覚」を養うことにも繋がる。

2022.05.04
2022.05.04

おはようございます。FOURTEENのコウタです。

京都を拠点にフリーランスデザイナーとして活動しており、毎日休まず続けている、ランニングやブログを通じて感じた「継続は力なり」の大切さを発信したりしています。

京都を拠点に完全独学のフリーランスデザイナーとして活動し7年目。2016年から禁煙をキッカケに始めた毎日ランニングは1,830日、毎日ブログは610日を突破。(2021年12月31日現在)

僕はどちらかといえば「感覚派」の人間だと思っていて、そのものの何が良いかを説明するために文章力(語彙力)を必要として毎日ブログを続けていたりします。

要するに、その理屈を説明することが出来ないので、その感覚をより分かりやすく伝えようとするために文章力や表現力が必要だということですね。

ということで今回は、学びとは「知識」を得ることだけではなく「感覚」を養うことにも繋がる、というお話をしたいと思います。

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実は「感覚」って曖昧なようですごく大切なんです。

「感覚」って言葉ではすごく表現しづらいと思うんですけど、その答えって皆さんの中には確実に「それ」ってものが1つ決まってあると思うんですよね。

ただ「熱い」って一概に言えど、僕はすごく熱いのが苦手な人だったりするんですが、僕よりも熱いのが得意な人も沢山いると思います。(例えば電子レンジで温めたもので鍋つかみがどの程度の熱さで必要かどうかとか)

そんな感じで、強弱には個人差があるとは言えど「漠然とした感覚」だけを取ってみれば、僕らは「熱い」とか「冷たい」とかが一体どういった感覚か?といった程度の共通認識は持っていて、この感覚を沢山持っているかどうかはすごく大切だと僕は思っています。

なので、知識や経験はその感覚的な部分を補える部分になると思うので、新しいことにチャレンジするメリットはそういう点にもあるということなんですね。

感覚とは厳密にいえば「思いやり」の1つでもある。

そして僕はその「持っている感覚の多さ = 思いやり(優しさ)」につながると考えています。要するに想像力の違いが思いやれる範囲につながるということなんですね。

人生でたったの1度も転んだことのない人に、膝を擦りむいた時の痛みは分からないし、なんだったら怪我をしてしまった時の対処方法だって分からないといった感じです。

世間一般的に言えば、おじいちゃんおばあちゃんになれば、心に余裕が出来て(純粋な子供に比べて)大らかな感覚になるというのは、それだけ長い人生の中で酸いも甘いもを経験して中で、色んな感覚を経験してきたからこそだと僕は考えています。

なので僕が思う「心の未熟さ」とは、経験による感覚をいかに自分に落とし込んだかの多い少ないの問題だと思うので、人は苦労をすることが悪いことじゃないと思える瞬間があるんだと思います。(苦労しないに越したことはないけどね)

知識だけでは知識を使える人にはならない。

で、先ほども言ったように「怪我をしたことのない人が怪我をした時の対処方法を知らない」という部分ってすごく重要だと思っていて、痛みが分からない人は痛んでいる人に対してアクションは出来ないんですね。

知識(感覚)がないから、もし目の前にそういう人がいたとしても「何も出来ない状況」が生まれて、もっと酷ければ「気付くことが出来ない状況」になったりする訳です。

「この人どんな痛みなんだろ?」とか「なんで悩んでるんだろ?」みたいな感覚がない人よりも、そういう感覚を人よりも多く持っている人の方が、相手に対してのアクションが明確だということなんですね。

そういう感覚を養うためにも「自分が困った時に相手からしてもらった嬉しいアクション」なんかをしっかりとインプットして、それを実際に困っている相手に対してやってみる(アウトプットしてみる)ということが大切なんです。

その知識がどんな状況に活かせるかを想像する。

加えてそこで得た感覚(知識)は「もしも〇〇が起こったら〜」という部分を想像する「想像力」にもつながる訳です。

実例でを挙げると、先日僕はランニングに行ってた時に、おぼつかない足取りで必死にタクシーを止めようとしていたおじいちゃんがいて、信号待ちの際にそれに気付き近くで様子を見ていました。

で、ある人は「見てないでさっさと代わりにタクシー止めてやれよ!」ってことを言う人もいると思うんですが、僕の経験上「自分で出来るよ!」ってことを主張してくる高齢者の方も沢山いることを知っているんですね。

なので僕はそのおじいちゃんの自立した行動を立てつつも、もしかしたら転んでしまうかもしれない危険性に対応出来るように、いつでも行ける準備をして後ろで見守っていたという訳です。

実際にタクシーが止まって、おじいちゃんは自力でタクシーに乗り込みましたが、後ろにひっくり返らないか不安だったので乗り込むまで見守っていました。(で、後ろで見守っていた姿をタクシー運転手が確認して会釈してくださいました)

これが正解か不正解かということは置いておいて、僕は「おじいちゃんはまだまだ元気で自分で出来るよね」ってことを与えてあげた方が本人はハッピーだと思ったので、最後まで見守るに徹したということなんです。で、これが僕の持っている経験(感覚)なんですね。

こんな風に、ただ「学ぶ」ということだけでなく、それをより深くインプットすることで、柔軟に対応することが可能な「感覚」的な部分に結びつくと思うので、何かをインプットする際には意識してみて欲しいなと思います。

一緒に頑張りましょう。

では、また明日。

WRITER
KOHTA FUKUI / Freelance Designer
KOHTA FUKUI
Freelance Designer