言葉の意味を同じ捉え方が出来ている人と歩むからこそ生まれる成長。
おはようございます。FOURTEENのコウタです。
京都を拠点にフリーランスデザイナーとして活動しており、毎日休まず続けている、ランニングやブログを通じて感じた「継続は力なり」の大切さを発信したりしています。
京都を拠点に完全独学のフリーランスデザイナーとして活動し9年目。2016年から禁煙をキッカケに始めた毎日ランニングは2,570日、毎日ブログは1,340日を突破。(2023年12月31日現在)
先日、SNSを見ていたら偶然流れて来た日米プロ野球界のレジェンドである「イチロー選手」の名言としてとある動画が流れて来ました。
そこでイチロー選手がインタビュワーからの質問に対して語っていたテーマは「自己肯定感」というワードに対してで、そこで僕は言葉の使い方を気をつけないといけないと感じたんです。
ということで今回は、言葉の意味を同じ捉え方が出来ている人と歩むからこそ生まれる成長、についてお話ししたいと思います。
イチロー選手が話ていた「自己肯定感」という言葉の気持ち悪さ。
インタビュワーとのやり取りの中で自己肯定感という言葉を知らなかったイチロー選手は、その言葉を初めて知った中で「僕は自己肯定感という言葉が気持ち悪いです」という表現をされていました。
最初は「なんで気持ち悪いんだろう?」と思って聞いていたんですが、最後まで聞けば聞くほど納得の嵐だったんです。
言い換えれば、その時イチローさんが捉えられた「自己肯定感」という言葉が、世間一般で使われている本当の意味だとしたら、僕も気持ち悪いと思うような意味合いで捉えることしか出来なかったんですよね。
気持ち悪いと思われた理由を簡単に説明すると、肯定を自分でしてしまった時点で全てが許容されてしまって、厚みのない存在になってしまうので、その感覚を自分自身は良いことだとは思えないといった感じでした。
世間一般で使われる「自己肯定感」という言葉の感覚。
そのインタビューの中でイチローさんは、インタビュワーの人に対して「自己肯定感の高い人ってどんなことがあってもニコニコと仕事してる(感情を消してポジティブにしてる)ような人のことですか?」って質問をされていました。
インタビュワーさんはそんな風な感じですと答えていたんですが、イチローさんの中では「良いことだけを紡ぎとって悪いことは振り返らないことに成長はない」といった感覚を持っておられたみたいなんですね。
結果的にそれは全てを肯定して生きていくことに繋がるので、成長のない人生(厚みのない人間)が怠惰によって生まれてしまうんじゃないか」という疑問で、そういう言葉の意味として使うのであれば僕も「自己肯定感という言葉は気持ち悪い」という結論に至りました。
世間の流行りで生まれた言葉の意味を自分の言葉として表現した時に、僕の思っていた言葉の意味と世間の感じ方の意味のギャップがある場合があると分かったからこそ、日本語ってやっぱり難しいなって思いました。
僕が思う「自己肯定感」の意味。
僕はこれまでに、「自己肯定感の上がる行動を続けることがメンタルを安定させる」的なことを発信して来たんですが、それは僕にとっての「自己肯定感」という言葉の意味を持ってすれば訂正することは一切ありません。
僕の思う「自己肯定感」とは、「必死に努力しても思った以上の成果が得られなかった自分の努力を肯定しよう」というくらいの感覚なんですが、きっとこれはイチローさんも同じような表現なら納得してくれると思うんですね。
ただ、世間一般では「頑張れない自分もOK」とか「怠けてる自分もOK」とか、それを自己肯定することで、自分自身も正そうと思わなくなるし、周囲の人間も肯定派だったらどう考えても「怠惰」しか生まれないじゃないですか。
僕は毎日ランニングをしたり、ブログを書いたり、食事制限をしたりしてますが、人間って信じられなくらい弱い部分が沢山あって、それを1つ1つ許容して肯定してたら絶対に怠けしか残らないので、僕は「厳しさありきの自己肯定感」だと思っています。
言葉の意味のギャップを考えて言葉選びをする。
今回の件で、何でもかんでも流行りの言葉を、その意味を深く知らないままに使うのはどうなのかなって少し疑問を感じたので、気をつけて使わないといけないなと感じました。
このことをSNSの発信でぼそっと呟いた時に「どういう意味だと思ってたの?」みたいな議論が生まれたんですが、そういう状況になるのも全然意味が分からないじゃないですか。
例えば、僕がいう「努力」っていうのは「毎日5kmを走ること」ではなくて、5km走ることで感じた「疲労感」とか、そういう代償の部分が同じベクトルであれば、「勉強」でも「労働」でもなんでも良いということなんです。
ただそこで、毎日バカみたいに何の節制もせずにジャンクフードを食い漁った上で、運動頑張ろうーといって数十秒足をバタバタさせて腹筋運動として、息も荒れてないのに「努力」とか言われたら、それと僕の思ってる「努力」は違うよねって話になるんですよね。
だからこそ「言葉の捉え方にギャップのない人」というのが同じ目線で戦える人なんだと思ったし、僕の周囲には同じ目線でそれを考えられる人、もしくは同じ目線で戦えなくても一歩引いてリスペクト出来る人が集まってくれていることが嬉しいなと感じました。
言葉ギャップって少し面倒ですが、人を判断する条件としては最適だと思ったし、同じベクトルで言葉を捉えられる人と共に成長していけたらと思います。
一緒に頑張りましょう。
では、また明日。