僕が強くなれた理由は「裏切り」から芽生えた深い愛情と「反骨精神」
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僕が強くなれた理由は「裏切り」から芽生えた深い愛情と「反骨精神」

2022.02.12
2022.02.12

おはようございます。FOURTEENのコウタです。

京都を拠点にフリーランスデザイナーとして活動しており、毎日休まず続けている、ランニングやブログを通じて感じた「継続は力なり」の大切さを発信したりしています。

京都を拠点に完全独学のフリーランスデザイナーとして活動し7年目。2016年から禁煙をキッカケに始めた毎日ランニングは1,830日、毎日ブログは610日を突破。(2021年12月31日現在)

僕が人として許せないことの中に、「人を大切にしない人」「お金(物)を大切にしない人」があります。(この2つについてはまた改めて)

この2つのどちかが欠けていたら、その人間を人として見れなくなってしまうくらい、僕は情に熱い人間だと自負しています。

ということで今回は、僕が強くなれた理由は「裏切り」から芽生えた深い愛情と「反骨精神」、というお話をしたいと思います。

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家族という言葉だけの繋がりは浅く、血のつながりに何の意味もない。

よく、家族だからとか、血のつながりの有無だけで何かしらを判断する人がいるんですが、そらもちろん大変なんですが、僕には家族よりも大切な人は沢山います。なので僕にとってその基準はよく分からないんです。

調べたわけじゃないんですが、血が繋がっていると感情的にもリンクしたり、幼い頃から長い時間自分と一緒にいることで生まれる特有の情みたいなのがあるんですかね。(もちろんそういうのは僕にもあります)

ただ、それぞれの人生を歩んでいく中で、その家族にすらも裏切られたり、一方で家族以外の人間に深く支えられたり、そんな経験が立て続けに起きた時に、果たしてその家族というだけの繋がりを大切に思えるのかって話なんです。

困った時に必ずしも助けてくれるのは家族じゃないと分かった時に、結論的に自分の身は自分で守らないといけないと思ったんですね。

家族という無責任な人間に振り回された人生。

僕が今家族と繋がっている理由は、そこに少なからずの情があるのは確かですが、ここ最近はメリットの有無で判断しているように思えます。(自分の人生のステップアップのための我慢ですね)

そういう風にでも考えないと、過去に与えてもらったものは置いておいて、現状僕が与えられているものよりも確実に背負わされたものの方が大きくて、そんなものを家族だからという理由で許容しながら生きていくのは酷すぎるんですね。

僕の仕事を散々バカにした(自分は)インチキ商売をしてた人が亡くなった時も、ホントに何1つ悲しくなかったし、ちょうど仕事が忙しかった時だったので、(葬式とか)さっさと終わらないかなと思ってました。

昔から一緒で、どれだけ長い時間を過ごしたかなんて関係ないんですよね。結局は、今持っている印象と信頼関係なんですよ。

家業を継いでくれと僕を京都に2年間も引き止めたクセに、裏で勝手に意見を変えて「デザイナー片手間に継げるか!」と言い出した無責任な人間もいたり、自分の人生のことしか考えられない人なんて家族ではないわけですね。(実は半年後にはその意見になってたらしく、それならもっと早く言えよって話ですよね)

人を信じたが故に、人に裏切られた人生。

僕は19歳の頃に自分の人格の刀のように尖りまくってた部分バキっと折り捨てて、新しい人間として歩み始めました。(なのでよく友人から「丸くなったなぁ」と言われます)

そこから僕は「情」を大切にするようになり、むしろ「情」だけで生きていく人生が始まったんですね。で、それは今も変わりません。

僕がこれまで仕事を一度も断ったことがない理由は、クライアントさんが「予算がなくて…」と困ってたとしても、そこはお金に関係なく、その取り組みを素敵だと思ったり、その人を素敵だと思ったら即断で受けてるからなんです。

それ故に、わざわざ「世界中の中の1人に自分に仕事を頼んで来てくださった人」という風にクライアントさんを見てしまったことで、裏切られたことは沢山ありました。

こういう性格だからこそ、僕はクライアントさんだけではなく、家族にも裏切られた人生があったんだと思います。でも、チャンスは2度も与えるほど優しい人間ではありません。

でも僕は、人を信じることをやめない。

今思い返せば、僕は裏切られたことによって芽生えた「反骨精神」をエネルギーに突き進んで来れたなと思うわけですね。元々尖っていて、負けん気だけは強かった人間なので、そういう感情をエネルギーに変えられたんだと思います。

そういう意味で言えば、僕を裏切ってくれてありがとうと(スーパーポジティブに考えて)思うえるし、言い方を悪く言えば、おかげであなたを見下せるような場所に来れたよってところですかね。

でも、そういう境地に来た時に「好き」の反対は「嫌い」ではなくて、「興味がない」といったところで、葬式で1ミリも悲しくなかったあの人のように、ホントに無の状態になってしまったような感覚です。

人生を生きていれば、良いことも悪いこともあるんですが、やっぱり人を信じた未来の方が熱いものがあるし、僕はその情熱に生き甲斐を感じているので、これからも人を信じることはやめないと思います。

そこで持ちつ持たれつ、切磋琢磨し合いながら信頼出来る人たちを心の底から大切にして生きていきたいと思います。それは家族とか、そうじゃないとか変わりません。

一緒に頑張りましょう。

では、また明日。

WRITER
KOHTA FUKUI / Freelance Designer
KOHTA FUKUI
Freelance Designer