優しさが「人の選択肢」を奪う可能性があることを考える。
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優しさが「人の選択肢」を奪う可能性があることを考える。

2021.06.15
2021.06.15

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おはようございます。FOURTEENのコウタです。

京都を拠点にフリーランスデザイナーとして活動しており、毎日休まず続けている、ランニングやブログを通じて感じた「継続は力なり」の大切さを発信したりしています。

京都を拠点に完全独学のフリーランスデザイナーとして活動し6年目。2016年から禁煙をキッカケに始めた毎日ランニングは1,464日、毎日ブログは242日を突破。(2020年12月31日現在)

今日のテーマでお話しする中で、自分の母親の話を例に出そうと思うのでますが、決して「うちの母親やがダメだー!」というわけではなく、あくまで「その行動の先にはこんな未来もあるよ」ということを分かりやすくお伝え出来ればと思います。

ということで今回は、優しさが「人の選択肢」を奪う可能性があることを考える、というお話しをしたいと思います。

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僕の母親はとにかく「優しい人」である。

僕の母親はとにかく「よく気のつく優しい人」で、1を言えばアレもコレもと、次から次へと発展していく優しさに満ち溢れた人です。

例えば「この食べ物が好きだ」と母親の前でポロッとでも口に出してしまった時には、その日か、もしくは次の日には「買って来たよ!」といった感じで、人を喜ばせるための行動に労力を感じない人なんです。(味が複数ある時は全部買って来る。)

昔から「今日は夕食はいらないよ」と伝えても、帰って来たら「一応作って冷蔵庫に入れてあるから」といった感じで、「至れり尽くせり」といった言葉が最適な程、実家に帰れば食べ物に限ったことではなく、全てのことが準備されています。

そんな「何もしなくても良いよ」とお願いしても、そんな言葉は通用しないほど「人のために尽くす人」なのが僕の母親です

僕はそんな母親の血を引いているのか、「誰かの笑顔のため」を目的として今仕事をすることが出来ているのかもしれません。

優しさが「選択肢」を消すと感じた日。

実家に帰った時、地元のご飯屋さんに久しぶりに食べに行きたいなと考えていました。

ただ、数日滞在している中で、うちの母親が毎日のように、朝食や昼食に(賞味期限の短い)お弁当やパンなどを買って置いてくれている日々が続いた時に、自分の「選択肢」が消えていることに気付きました。

僕は「久しぶりにご飯を食べに行きたい」と思っていても、朝起きれば大量に準備されている食事によってその選択肢が消えてしまってたんてますね。(食べないと腐ってしまう量なので。)

これは間違いなく「優しさ」でやってくれているので感謝しかないのですが、「与え過ぎる」ということがもたらした1つの弊害でもあると思います。

僕が食事制限をしている時なんかも、「自分の食事は自分で作る」と伝えているにも関わらず、「これなら食べられると思って」と用意された食事には手を付けない訳にはいかないです。

そこには「自分が必要以上に食べないといけないという未来」が待っていて、普段から節制している僕ですが、実家に帰れば毎回太ってしまいます。(気持ちは嬉しいだけにもどかしい。)

その優しさがもたらす影響を考える。

そういう意味で考えた時に、色んなことに共通すると感じて、「与えること」ってホントに慎重に考えないといけないことだなと思いました。

そして僕はこういう母親の愛情によって育てられて来たので、「与えられることに慣れてしまい過ぎていた時期」が確かにあって、それによって「考えること」を奪われていたんだなと今思い返せば思います。

至れり尽くせりの状態」が常にあったからこそ、目標を実現することや、何かを手に入れるために出来ることを考えることをする必要がなかったんですね。

それって冷静に考えたらホントに危険なことで、(母親には心から感謝していますが)もしも自分が子供を育てるとなった時には、決して与え過ぎず「自分で考えることの出来る選択肢がある環境」を作りたいと思っています。

「考えること」を実現するための環境づくり。

僕自身は母親から大きな優しさを教えてもらい、それが今の仕事にすごく活きていることではあるんですが、僕にとっての「考えること」に関しては、自分が「独学でフリーランスデザイナーになると飛び込んだ環境」が教えてくれました。

全くのゼロの状態から、「どうしたらデザインが上手くなるだろう?」「どうしたら仕事がもらえるんだろう?」「どうしたら安定するんだろう?」と、自分の中でひたすら考えに考えまくりました。

僕の持論ではあるんですが、「全てを与えられた環境」で生きていては、きっと自分の身になることは少ないと思いますが、ここで「考えること」によって自分自身への定着は全然違うと思います。

そういう意味で「考えることが出来る環境」ってすごく大切なんですね。

今回は自分の母親の、ちょっと過剰な優しさを例に「与え過ぎることによって起こる弊害」について話ました。(何度も言うように母親がダメということではないです。)

ただ今回の発信で、皆さんの今いる環境が「考えることが出来る環境」であるかを、改めて考えるキッカケになればと思います。

一緒に頑張りましょう。

では、また明日。

WRITER
KOHTA FUKUI / Freelance Designer
KOHTA FUKUI
Freelance Designer