頭を下げるということは物理的なことではなく姿勢的なこと。
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頭を下げるということは物理的なことではなく姿勢的なこと。

2022.09.09
2022.09.09

おはようございます。FOURTEENのコウタです。

京都を拠点にフリーランスデザイナーとして活動しており、毎日休まず続けている、ランニングやブログを通じて感じた「継続は力なり」の大切さを発信したりしています。

京都を拠点に完全独学のフリーランスデザイナーとして活動し7年目。2016年から禁煙をキッカケに始めた毎日ランニングは1,830日、毎日ブログは610日を突破。(2021年12月31日現在)

学生時代よく先生から怒られていた僕は、怒られている最中に心の中では「さっさと終わらないかな」と適当にごめんなさいと謝っている状況を容易に想像出来ます。

大人になってみて、きっとこういった事がサラリーマンの世界での上下関係として起こっているんだと思うと少し思う事があります。

ということで今回は、頭を下げるということは物理的なことではなく姿勢的なこと、についてお話ししたいと思います。

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僕が決して誇ることの出来ない家族の話。

家族の話をすると、僕を知っている身近な人間からすれば家族に対しての偏見が生まれるかもしれないのですが、僕はそんなことどうでも良いと思っています。

ただの血の繋がりを重んじて考えていない僕にとって、自分がブレずに感じた本当のことを言っているだけなので、それで周りがどう感じようが僕には関係ないんです。

そんな僕には、もちろん全てをリスペクト出来ないわけではないですが、今回のテーマでもある「頭を下げられない人」として決して誇ることが出来ない家族が数人います。

社交辞令でもなんでも同じで、とにかく「ごめんなさい」が嘘でも言えない不器用と言いますか、頑固と言いますが、プライドを1ミリも捨てられないどうしようもない人間たちです。

「ごめんなさい」が言えなくても姿勢で伝わることがある。

僕は学生時代にずっとサッカーをやっていて、前半に思うようなプレーが出来ずに監督から怒られた時に、わざわざ監督に「上手くプレー出来なくてすいませんでした!」なんて謝ったことはありません。

「後半はもっと気合い入れてやろう…」そういう心を持って挑み、結果それがプレーとして出て褒められるようなシーンがいくつもあったわけですね。

でもそれって、言葉として伝えるわけじゃなく、物理的に頭を下げるわけでもなく、自分が不甲斐ないと思ったからこその姿勢(プレー)から滲み出るものだと思うんです。

ただどうしても大人の世界になると、そういう取り返し方だけじゃなく、嘘でも頭を下げるた方が良いシチュエーションは沢山あるんですが、きっとそっちの方がエネルギー消費は少なく済むと思うんですね。

ほんの少しプライドを捨てるだけで掴める未来。

僕も尖りに尖って生きて来た側の人間で、なんだったら家族にすら「ごめんなさい」とか「ありがとう」なんて言ったことのないような人間でした。

家族のせいにする訳ではないんですが、それをするのが当たり前という程までの教育を受けて来た訳でもないので、逆に「姿勢で示せば良いだろ」って感覚を持っていて、形式的なアクションを起こせない人間だった訳ですね。

そんな中、社会人として、そしてフリーランスとして活動する中での生きていく術として、自分のプライドを少し捨てるだけで楽に生きていけることを学んでいくこととなりました。

それはペコペコとゴマをすって世渡り上手に生きるということではなく、僕のプライドが先行して損をしているということを知ったからですね。

で、相手からすれば「お前のプライドなんか知らねぇよ」って話で、そこで折れる自分が格好悪いと思っていた自分が強くアクションを起こせなかったんですが、ある時から「頭を下げれる人の方が美しい」と思うようになりました。

「頭を下げれる人の方が美しい」と思えたことが転機になった。

先ほども言ったように、僕は仕事をもらうためにペコペコ頭を下げることは決してありませんし、自分が「それは違う!」と思ったことに関してはクライアントだろうが当たり前のように主張して喧嘩になることもあります。

ただ、自分自身の身近にいるその点で誇ることの出来ない家族を見ている中で、物理的にじゃなくても「頭を下げる」ということが出来ない人間に掴める未来ってほとんどないんだよなってことを反面教師で学んでいます。

自分のプライドを優先し続けて頭を下げることが格好悪いと思っている姿勢は、どんどん人が離れていって、どんどん協力してもらう機会が減っていってるんですよね。

そうなって来ると、お金なんかで縛りでもしない限り「やってあげたい」って気持ちは相手側から自発的に生まれなくなって来る訳です。

でもそれを気付かない(もしくは気付いていてもプライド優先にする)大人が身近にいることをすごく悲しく思うし、それを「もう治らない」と言って傍観している大人のことも悲しく思います。

きっと苦労の数だけ強くなれるというのはそういう部分だと思うんですが、僕は年齢に関係なく人は変わっていけると思うので、少しでも早くそういう部分に気づいてほしいなと思います。

そういう意味で家族がどーとかも関係ないと思うし、歩み寄ることで改善されることでないのであれば、僕は自分が守りたいと思う人を全力で守ってくために時間を使っていければと思います。

一緒に頑張りましょう。

では、また明日。

WRITER
KOHTA FUKUI / Freelance Designer
KOHTA FUKUI
Freelance Designer