苦労をして来た人生と、苦労と向き合って来た人生は全然違う。
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苦労をして来た人生と、苦労と向き合って来た人生は全然違う。

2022.04.09
2022.04.09

おはようございます。FOURTEENのコウタです。

京都を拠点にフリーランスデザイナーとして活動しており、毎日休まず続けている、ランニングやブログを通じて感じた「継続は力なり」の大切さを発信したりしています。

京都を拠点に完全独学のフリーランスデザイナーとして活動し7年目。2016年から禁煙をキッカケに始めた毎日ランニングは1,830日、毎日ブログは610日を突破。(2021年12月31日現在)

自分で言うのもなんですが、僕は自分自身がその道を選んだからということもあるんですが、普通の人よりは少し多めの苦労をしてきた人生だったと思います。

優しさや思いやりをどうしても捨てられなくて、本当なら捨てられる(捨てたら楽な)ことに首を突っ込んで、自分の人生を難しく険しい道にして歩んで来ました。

ということで今回は、苦労をして来た人生と、苦労と向き合って来た人生は全然違う、というお話をしたいと思います。

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苦労をして来た人生と、苦労と向き合って来た人生は違う。

多くの人が勘違いしているんですが、苦労を経験するっていうのは誰にでも日常茶飯事として訪れることだと僕は思っているんですね。

例えば、自分が働いている職場で「満員電車で通うのイヤだなぁ…」とか「あの上司嫌いだなぁ…」とか、色々な苦労があると思うんですが、極論を言えばそこで「じゃあ辞めよう」という選択をした場合、別にそれは苦労と向き合ってるということにはならないんですよ。

1つの選択肢として「苦労から逃げた(避けた)」ということだと思うんですが、苦労と向き合うというのは、そこで起こった問題に対して改善出来るまでとことん尽力するということだと僕は思っています。

例に挙げたのがお仕事のことだったので違和感がありますが、これが「家族の問題」となれば、仕事を辞めるという様な感覚で簡単に突き放すことは出来ないですよね。

そういう部分に人生をかけて立ち向かおうとしたから僕の苦労を目の前に、そこから目を背けて来た家族に対して感じることがあり、僕は「人間不信」になりました。

好きの反対は嫌いじゃなくて「興味がない」なんだよね。

で、昔からよく「私〇〇さんのこと嫌いなんだよねー」というような話って、いわゆる愚痴のような感じで多くの人が言ってきたりするんですけど、僕の中ではちょっとそれはなんか違うんじゃないかなと思ってるんですね。

要するに、不満があるということはその「嫌い」は「興味があるから気にしてしまう」ということだと思っていて、僕の場合は「嫌い = 興味がない」ということなんですよ。「あ、この人嫌だな」って思った途端、視界からその人が消えてしまうんです。

その人が目の前にいようが何をしようが、僕は僕の空間にいることが出来るし、それは家族だからと言って関係なく、1人の人間としてその人が僕に対してやって来た過去の行動で全てが決まります。

僕は情に厚いからこそ、一方では超冷酷な面も持っているので、僕に対して不義理な行動をした人間に関してはことごとく僕の視界から消えていきます。(そういう風にしないといちいち僕の心が持たなくなるので)

一度投げ出した人間が僕に対して家族ぶってるんじゃないよ。

よく家族からは「家族だから」とか「共同生活だから」とか言われたりするんですが、それはこっちも同じことだと思うんですよね。

僕は1日中、誰とも話さずにただひたすらパソコンに向かう日々で、食事も自分で作りますし、お金も全て自分で管理してますし、別にそこにいるだけで誰にも迷惑をかけていることなんてないんです。

で、そんなとある日「出て行け」といわれたことがあったんですが、これって完全に今でいうところの「ロシアの主張」であって、自分達の思想やプライド、縄張りや時間が他者によって脅かされることを嫌うからこそ「出て行け」っていうことを言うわけじゃないですか。

僕は自分が「家を失う」という経験を過去にして来ていますし、帰る場所がなく色々な人の家を転々とした理、そしてそれがどれだけ惨めで、不便で辛いことかを知らない人間が言う「出て行け」ってもう戦争とか人種差別と同じなんですよ。

なので僕は、何があっても絶対にそう言うことを人には言わないし、そういうことを1つの罪として認められない人間はそれこそ視界から消えていきます。(嫌だったらお前が黙って出て行けばいいやんっての極論ですよね)

僕が共に生きたいのは「共に苦労出来る人」なんです。

僕は「鬱陶しい人間界の代表なのか?」って思うくらい、過去に「出て行け」という風に言われた経験がありますが、そういう言葉を言われた経験は全て「身近な人間」でした。

僕の人生を構成して来た人間から、僕の存在が不要と言われ、そんなに僕のことを恨み、いなくなって欲しいというのであれば、いつだって死んでやるのでさっさと簡単に死ねる方法を調べて教えてくれよと思っています。

で、大体のやつは「ついカッとなって…」とか「本心では思ってなかった」と後からそういうことを言って来たりするんですが、そんなこと言ってたら感情的になれば何をしても良いのか?って話になるので僕は嫌なんですよね。

そこで投げかけられた言葉や行動は事実であって、それは心に残り続けていくものだと僕は思うし、だからこそ絶対にやっては(言っては)いけないんですよね。

そういう意味で言えば僕は、不義理な家族云々関係なく共に生きたいと思う人は「共に苦労出来る人」で、そういう人達と一緒に仕事が出来ている事が僕の人生の全てとなっているんです。

自分にとって大切な存在が、必ずしも身近にいる存在ではないということを冷静に判断して、自分が愛情や時間を使うべき人間を見極めて欲しいなと思います。

一緒に頑張りましょう。

では、また明日。

WRITER
KOHTA FUKUI / Freelance Designer
KOHTA FUKUI
Freelance Designer