生きてて幸せだから生きるのか、幸せを探すために生きるのか。
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生きてて幸せだから生きるのか、幸せを探すために生きるのか。

2021.11.05
2021.10.31

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おはようございます。FOURTEENのコウタです。

京都を拠点にフリーランスデザイナーとして活動しており、毎日休まず続けている、ランニングやブログを通じて感じた「継続は力なり」の大切さを発信したりしています。

京都を拠点に完全独学のフリーランスデザイナーとして活動し6年目。2016年から禁煙をキッカケに始めた毎日ランニングは1,464日、毎日ブログは242日を突破。(2020年12月31日現在)

32年、もうすぐ33年を生きたことになり、人生100年時代の中で3分の1の人生を経験して来た僕ですが、もしも今僕が『遺書』を書くとすればどんなことを書き記すだろうと考えました。

きっと皆さんが想像しているよりもずっと僕の心は脆く、そんな脆い心の僕にとってあまりにも大き過ぎるダメージを負い続けていて、そんな僕が書く遺書の内容は悲惨なものになるんだと思います。

ということで今回は、生きてて幸せだから生きるのか、幸せを探すために生きるのか、というお話をしたいと思います。

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『血のつながり』という言葉ほど浅いものはない。

知人と話している中で「やっぱり子供の幸せのためにもお父さんとお母さんは絶対に一緒にいるべきだよね」なんてことを言っていたので、僕は「じゃあ世の中のシングルの人たちの子供はみんな不幸せなのか?」と問い詰めた僕。

この世の中にそんな当たり前なんてことは1つもなく、現に僕は家族への心からの信頼なんてものは1ミリも持っていません。というか、信頼したい反面、それをしたとしても極限状態では裏切られることを知っているので、そんな無駄なエネルギーを使いたくはないということです。

自分にとってのメンターは家族以外になり、僕は自分の人生を『家族が示してくれた』なんてことはお世辞抜きにも言えないし、僕は僕の信じた道を貫き、事実それは全て家族からも否定され続けた道を選び続けて、仕事だけで言えば、今は世間一般的にはそこそこ頑張っている状態にあると思います。

要するに、僕の人格を形成したのは全て『反面教師』からだったんですね。

良く昔は「普通は…」とか「常識的に考えて…」とか、それっぽい人生論を語られましたが、家族の言うそれらに逆らったからこそ、僕は今、唯一と言っていい幸せである『天職』である、フリーランスクリエイターの道を歩んでいるんです。

生きているだけで幸せだと思ったことはない。

もしも今の僕にこの『天職』の立場を手に入れてなかったとしたら、どれほど息苦しい人生だったかと想像するだけでも吐き気がするし、今すぐにでも死にたいと思うくらい生きる意味のない人生になっていると思うと恐怖でしかありません。

そして唯一の『生きる理由』であるこの天職で、僕が心から笑顔にしたいと思うクライアントさんと共に歩み続ける未来を創造するために、日々自分が立ち続けるために、『ランニング』や『ブログ』なんかの努力を続けています。

そういう意味で、僕は口が裂けても『生きてるだけで幸せ』なんて思って生きたことがないし、誰かが死んで、泣いて、悲しんでいる姿を見るたびに「そんなに悲しいなら俺が変わってやりたいくらいだよ」と普通に思っていたりします。

でも、この世界のルールは『生きなければならない』という暗黙の了解となっていて、例えば自分が死を選ぼうとしたとしても、なぜかそこには『恐怖』や『痛み』が伴うし、僕はそんなことに耐えてまで、死を選ぶ度胸がないのでそれをしないだけなんです。

人生にリセットボタンがあるのなら、今すぐにでも押してやりたい反面、それが不可能であれば、それよりもまだ『生きる理由』を探しながら生きてることを選んでいるんですね。

『裏切り』を回避するためには関わらないこと。

結局は人と人。僕もそうなのかもしれませんが、人って自分が可愛いんです。

追い込まれれば追い込まれるほど、その決断は『自分を守る』という方向に知らず知らずのうちにブレてくる。それでいて信念を曲げていないかの如く過去に自分がした行動や発言を美化して浄化したように思い込ませるんです。

でも僕は、これまでの人生で『自分を守る』なんて行動をしたことはないし、自分が傷を負ってでも守りたいもの、貫きたい信念のために自己犠牲を続けて来ました。それだけは自信があります。

でも家族であろうが、当たり前のように『裏切り』はあるわけです。本人は軽い気持ちで、そんなことしているつもりはなくても、僕自信が感じている事実として信じられないレベルのことが起こってるんです。

そこまでの努力や我慢が報われたかといえば、本来の目的で報われたことなんてほとんどなく、残ったのは『僕自身が強くなった』という事実ばかりなんですね。それはただの副産物であり、加えて僕自信がそう解釈出来たからこそ得られた成果なんです。

それを周りから「その経験があったから今があるんだよ…」って言われたりするんですが、そんな言葉を他人からかけられたところで、「お前に何が分かるんだよ…黙ってろ…」って心の中では思っていたりします。

そこで僕は悟ったんです。裏切り』を回避するためには関わらないことってことに。

クソ素晴らしき世界に乾杯。

人が好きで、笑顔が好きで、そこに尽くした上で出てくる相手の『甘え』とかホントにクソ喰らえだし、そういう意味で『優しい人が傷付く世界』がここにはあるんだとつくづく思います。

だから言ってるんですよ、楽しさ』を共有出来る人間は腐るほどいるけど、『痛み』を共有出来る人間はほとんどいないってことを。そして辛い時に、最後まで寄り添い続けてくれる人は、いつも痛みを知っている人だなって思います。

19歳の頃から僕は『幸せを探すため』に生きていて、幸せだから生きているわけではありませんし、それは今も変わることはありません。

人生100年時代。もうすぐ33歳で人生の3分の1を迎える僕が出した答えは『死ねるものならさっさと死にたい』でした。正確に言えば無理に生きたくない』って感覚で、そんな中で1つ考え方が変わったことは、『自分の幸せのために我慢する必要はない』ということでした。

僕の大切な友人、そしてクライアントさんとの関わりがどんどん広がっていく中で、これまで『当たり前の幸せ』だと思っていたことが当たり前とは感じなくなってきたんです。灯台下暗しではないですが、自分にとっての本当の幸せって世間の当たり前じゃないんだなって。

尖りに尖っていた俺様主義のクソガキの10代の生き様を償うように、20代からは自分を殺して丸くなった自分を、今では周りの人は『優し過ぎる』という様になりました。

僕はもっと自分の幸せのために、そして僕がその幸せを感じる場所で、同じように幸せを感じる人達と共に生きても良いんじゃないかなと思いました。なので、少しずつ動きます。

一緒に頑張りましょう。

では、また明日。

WRITER
KOHTA FUKUI / Freelance Designer
KOHTA FUKUI
Freelance Designer