自分が「どうしたいか」じゃなくて、相手に「どうしてあげたいか」で選んで来た人生。
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自分が「どうしたいか」じゃなくて、相手に「どうしてあげたいか」で選んで来た人生。

2022.01.12
2022.01.12

おはようございます。FOURTEENのコウタです。

京都を拠点にフリーランスデザイナーとして活動しており、毎日休まず続けている、ランニングやブログを通じて感じた「継続は力なり」の大切さを発信したりしています。

京都を拠点に完全独学のフリーランスデザイナーとして活動し7年目。2016年から禁煙をキッカケに始めた毎日ランニングは1,830日、毎日ブログは610日を突破。(2021年12月31日現在)

ふと自分の人生を思い返した時に、すごくすごく辛い人生を”わざわざ選んで”歩んで来たんだと思うことがあります。

もっと楽な生き方があるのにも関わらず、僕はなぜかその時にいつも辛い方を選択していて、傷付いて、心の中では惨めで、泣きながらも、未来を信じて進んで来ました。

ということで今回は、自分が「どうしたいか」じゃなくて、相手に「どうしてあげたいか」で選んで来た人生、についてお話ししたいと思います。

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スポットライトを浴びて生きて来た人間だからこそ、崩れそうなくらい辛かった。

誰よりも努力して、誰よりも節制して、自分の好きなこと・やりたいことを無理矢理「やりたくないこと」だと思い込ませて生きて来たという節がありました。

今はもう特別そこまで物欲はありませんが、若い頃には周りの友達達が「車買ってん!」と言って楽しそうに話している時は、その時に自分に出来る精一杯の意地で「京都に住んでるから車使わないよなー!」と着飾っていたりしました。

実際に使わないことも多いので、必ずしも必要なものではなかったんですが、買いたくても買えないというのとそれは話が別で、(特に学生時代なんかはスポットライトを浴びてた側の人間として)心のどこかで劣等感を感じ続けていたんですね。

ずっと僕は、不可能を可能にして来た人生を歩んで来た上で、自分を律すつために毎日ランニングを続けたり、そんな中で強い人間だと思われがちなんですが、ホントは誰よりも繊細で、実際は崩れそうなくらい辛かったんです。

その恩賞として良いこともあるけど「普通の人生」に憧れた。

何でこんなに努力しているのになかなか報われなくて、当たり前のことを当たり前にしている、いわゆる「普通の人生」を送っている人たちがすごく眩しく見えて、でも僕はその人生に足を踏み入れようとは思えなくて、すごく複雑な感情で人生を歩んでいました。

もちろんすごく不安でしたよ。独学でデザイナーになると決めた時、当初は自分でデザインしたメッセージTシャツを売ってたんです。

1枚たったの1500円程度で売っていて、材料費を省いたら1枚1000円くらいの利益で、1ヶ月に100枚売ってやっと10万円の利益。デザインも大したことないデザインが売れるわけもなく、せいぜいよく売れても10着程度。やっていける訳が無いんです。

メッセージを伝えたいからデザイナーになった。だから自分のメッセージを込めた「メッセージTシャツ」を作ろうと始めた活動が頭打ちに感じた時に、僕は絶望を感じました。

人と人とが交わる人生だからこそ傷付けることもある。

僕が売れないデザイナーとしてTシャツ販売をしているということで、昔からの友人やパートナーなんかの中には、すごくそれを応援してくれていた人達もいました。(大したデザインでもないのに買って着て宣伝してくれてる人もいました)

でも僕はデザインという分野の中で、そのTシャツデザインという夢を諦めて、僕がそこで成果を見出せなかったから、色んな人の期待を裏切って傷付けてしまう人もいたと思います。

でもそれは、人と人との交わりがある人生だからこその問題で、それぞれ色んなタイミングがあって、僕自身にもタイミングがあって、実際その時の現状やいろんな感情がすれ違って上手くいかなかったり、一方でタイミングが良かったからこそ噛み合って。

人生ってホントにそれくらいシビアなものだなって思う一方で、そんな中でも僕は常に必死に生きて来たんですね。

与えて、与えて、与え続けて僕は死ぬ。

「明日死んでもいい」というと、僕の友人からは「何を言うてねん」とか「まだ死ぬな」とか「きしょ」とかって言われるんですが、ホントに僕はそもそも生きたいと思って生きている試しがないんですね。

要するに、シンプルに「生」にしがみついて生きてはないんです。

難しい表現なんですけど、どちらかといえば「生きる意味を探して生きている」というのが正解で、生きる意味がない状態から、今は多くのクライアントさんに求めてもらっているという事実がある中で、その期待に応えるためだけに生きてるんですね。

だからこそ僕は、与えて、与えて、生きて来たし。そしてこれからも、生きている中では与え続けて、そしてそのまま死んでいきたいと思っています。

そんな中で1つ、良い意味でも悪い意味でも自分がエゴイストだなって思うのは、自分自身の手でやってあげたいことが多すぎるってことです。あれもこれも全部自分がやって、自分が笑顔を提供して、自分がその笑顔を見ていたい。だからもう身体が足りてないんです。

そういう部分だけで言えば僕はただのわがままなんだと思うんですが、それが僕の生きている意味(生き甲斐)で、それが僕の歩みたい人生なんだと思います。

一緒に頑張りましょう。

では、また明日。

WRITER
KOHTA FUKUI / Freelance Designer
KOHTA FUKUI
Freelance Designer