心と心で会話する。
僕は人が大好きだ。
僕は人が好きで、好きで、好きで。
でもこれまでの人生で沢山見たくないものを見て来て、それでも人が好きで。
こんな性格だから、沢山の人から頼られて(背負わされて)、強い人間だと思われ続けて生きて来ました。
ボロボロになることもあるんですが、その度に自分をなんとか鼓舞して再起して、それでもまた傷付くことを恐れながらも人を愛そうとする。
それが僕という人間です。
親戚や友人と会話をしていて。
先日、親戚のお葬式に参加して、その後に親戚との時間を過ごしたのですが、色々と訳あって会えていなかった親戚との再会に喜びを感じる一方で、心から繋がれていない血の繋がりを感じて悲しさを感じていました。
それは、祖父母が僕のために貯金してくれていた貯金箱を遺品として渡された時に、その中に入っていたはずのお金が全て抜かれていたからです。
それを笑顔で渡された時に、僕はなんだかものすごい喪失感を感じたんです。
「あぁ、血が繋がっていてもここにも心がなかったんだ」と。
血の繋がりに信用はない。
僕のこれまでの人生を話せば、きっと他の人なら病んでしまうような(とはいえ僕も病んでる)出来事は多かったと思います。
それこそ血の繋がりを浅はかなものだと感じることが沢山ある訳で、僕もみんなと同じように家族に対して愛情を注ぎたかった(今も注いでるつもりですが)人生だったなと思うんですよね。
どんな状況であれ、血の繋がった人が亡くなるのは悲しいですが、それを亡くなった時に惜しむくらいなら、生きてるうちに当たり前のように接したかったと思うのが正常だと思います。
不器用でも素直に生きる。
生前を半信半疑で過ごして、亡くなった時に「本当はこう思ってたんだ」なんてことを知らされるほどに辛いことはないし、だからこそ僕は自分自身は素直に生きようと決めています。
今回の件でも、親戚の中で色々と話があったんですが「本人が顔を出せば全てが済むこと」というくらい、人って意外と寛容で、目の前のことに反応してくれる生き物なんですよね。
少なくとも僕の周りには「許せる人」が多いとは思いますが、僕は今回のように「疑いをかけられる人」にはなりたくないなと思いました。
僕って本当に不器用で、強がって無理をして、羽目を外してめちゃくちゃな行動をしちゃう時があるんですが、根は真面目なんですよね。
でもそれは、もう半ば投げやりになってしまった最近だけの話で、本当はもっと落ち着きたいなって思っています。
でもそれには、僕に「当たり前の環境」が必要だと思います。
友達や、家族や、パートナーなど、難しいことはいらないただただ当たり前がどれだけ大切なことなのかを身に沁みて感じています。
こんなことが頭でグルグルしないような日々がいつか来ることを信じて、今日もぼちぼち生きていこうと思います。
一緒に頑張りましょう。
では、また明日。