クリエイターとしての価値について理解してもらえない葛藤。
おはようございます。FOURTEENのコウタです。
京都を拠点にフリーランスデザイナーとして活動しており、毎日休まず続けている、ランニングやブログを通じて感じた「継続は力なり」の大切さを発信したりしています。
京都を拠点に完全独学のフリーランスデザイナーとして活動し8年目。2016年から禁煙をキッカケに始めた毎日ランニングは2,195日、毎日ブログは975日を突破。(2022年12月31日現在)
今回の記事は、決して愚痴とかではないのですが、クリエイターという生き物を皆さんがどれだけ理解してくださっているかを知りたくて書こうと思いました。
きっと、専門的なお仕事ではあるので「そんな考え方もあるんだ」みたいな発見になるような気がするんですが、これはいつまで経ってもクリエイターとしてのテーマになっていくんだと思います。
ということで今回は、クリエイターとしての価値について理解してもらえない葛藤、についてお話ししたいと思います。
5分10分で生み出した作品への共感。
先日、ある方から会社名を変えるという報告を受けたのですが、そこで新しくなる社名を聞いて少し驚いたことがあるんですよね。
というのも、その方の別プロジェクトで動いていた(完全に僕が奉仕状態でのお仕事)で制作したロゴやコンセプトをまるまる新規の会社のものとして「ロゴはあれ使う予定!」的な感じのことを言ってきたんです。
で、その方と一緒にいた時に、その場のお話のノリで「こんな感じどう?」みたいな感じでパパッと企画を提案して、その場でロゴの大枠を作ったりしたんですね。
僕はそういうのがすごく得意な方で、時間をかけて作り込むのはクリエイターとしてその後の話になるのですが、正直(デザインの価値の分からない)素人からすれば、簡単に出来たものとして見られるものになったのかもしれません。
作品に支払われるべき対価とは。
で、ここでの記事の内容としては、僕はクリエイターだけではなく、誰かが生み出した「作品(サービス)」についての考え方を議論したいと思っているんです。
要するに、僕が電通さんのような超大手のCMをボコスカ手掛けているようなクリエイターだとした場合、今回のような対応にはなっていない訳なんですよ。
要するに、近所の野球の上手いおじさんが野球教室を開くのと、大谷翔平選手が野球教室を開くのであれば分かりやすく価値が違うと分かると思うんですが、この部分って僕レベルのプロのクリエイターとしては見てもらえなかったりするんですよね。
よく、飲食店で注文して「思ってたのと違う」で別の料理を提供するのはあり得ないって表現をするんですが、クリエイターの作品や技術に対する対価の考え方ってまだまだそんなもんですごく残念に思います。
クリエイターとしての作品を他の仕事に置き換えて考える想像力。
先ほども言ったんですが、クリエイターでいう「作品」はレストランでいう「料理」で、ここで共通して価値として売っているのは「時間 = 生命」なんですよね。
ただ料理人とクリエイターではそこに対する周囲の価値観が違っていて、この価値観のギャップっていつになったら埋まるのかがホントに気になる部分です。
今回のように、ちょっとした打ち合わせのアイデア出しでパパッと出したアイデアって、僕がこれまでに積み重ねて来た経験(学びやアイデア収集など)によって出たものであって、千載一遇で出たものではないんですよね。
そんな僕が生み出した作品を「簡単に作ったもの」として扱われて、リスペクトのない言葉で使われるのはやっぱり苦痛だし、そこで「使わせてくれないか?」みたいな言葉があればいいのになって思うんです。
結局最後には思いやりが大切だよねって話。
こういう時に感じるのは、やっぱり「思いやりが大切だよね」ってことで、結局のところそれが全てだよなって僕は心底思うんですよね。
自分が出来ないことは、やっぱり僕がそこに注力出来なかった時に相手が積み重ねて来たものだと思うし、そこにはリスペクトがあって当然のことだと思います。
そんなリスペクトを当たり前に持てるような関係性を保ちながら、そんな素敵な人達と一緒にお仕事をしていきたいなと切実に思っているし、そのためにもう少し踏ん張りたいなと思っています。
なんだか愚痴のようなことは言いたくはないんですが、なかなか良いことばかりが起こる訳ではないような状況の中で、なんとか頑張っていきたいと思います。
絶対に僕はまた復活します。
一緒に頑張りましょう。
では、また明日。