目の前で起こったことしか僕は興味がない。
おはようございます。FOURTEENのコウタです。
京都を拠点にフリーランスデザイナーとして活動しており、毎日休まず続けている、ランニングやブログを通じて感じた「継続は力なり」の大切さを発信したりしています。
京都を拠点に完全独学のフリーランスデザイナーとして活動し7年目。2016年から禁煙をキッカケに始めた毎日ランニングは1,830日、毎日ブログは610日を突破。(2021年12月31日現在)
連日、ちょっと感情的な文章が多くなっているのを申し訳なく思うのと同時に、このお話は今回が最後にしておきたいなと思います。
僕がなぜこういう想いを伝え続けているかというと、自分の周りの人間がこういう人間であって欲しくないからで、変わろうと思う人は変わって欲しいと願いながら伝えています。(ご容赦ください)
ということで今回は、目の前で起こったことしか僕は興味がない、というお話をしたいと思います。
あなたはどこまで捨てられる?
僕は19歳の時に「自分の人生」を捨てました。
そんな僕に突っかかってくる人間の大半は「自分の人生」を生きていて、結局のところ自分(と自分の家族)程度の人間しか背負うことの出来ない人間です。
そもそも僕とは生きてる土俵が違うんです。(どっちが良いとかじゃないよ)
自分が可愛いから自分を捨てれない、誰かを背負えない程度の責任感を持っている人間が、違う土俵の人間に意見したり説教垂れたりしてるんじゃないよということで、そういう人間に僕は冷酷な顔で「あんたはどこまで捨てられる?」と質問します。
僕は捨てて来た自分の人生。
僕が自分の人生を捨てた時の最初の行動は「大学中退」で、家庭の事情で他府県に転校する事になった弟達が登校拒否になったのをキッカケに、自分が大学を中退して地元に連れ返し、学校を卒業するまで僕が働いて養いました。
色んな大人に協力をしてもらい、決して当たり前という日常を生きることは出来ていなかったかもしれないけど、そこそこの貧乏や見たくもない光景を日々見ながらなんとか生きて来ました。
そんな時期を乗り越えた先にあったのは「自分の生き甲斐とは何か?」という僕の人生にとっての最大のテーマを問いかけられたことで、弟達との共同生活の中で芽生えた「誰かの笑顔のために」という想いを胸にその時から進み始めました。
それまでの人生は、自分にスポットライトが当たり続けていたような人生だった中で、180度変わった自分のメンタルに違和感を感じながらも、自分が不器用ながらにもやれることを貫いて今も生きています。
誰かの笑顔のためにというのは決して都合のいいことでは無い。
「誰かの笑顔のために」という生き方をしていると、どうしても僕を利用しようとしてくる都合の良い人が現れたり、反対に僕自身を都合の良い八方美人だと思って接してくる人間がいたりします。
でも僕が大切だと思っていることとしては、その対象がそこにいる限り全力の笑顔であり、その全力の笑顔を見て僕自身も全力の笑顔になれていたとしたら、全てそれは正解なことだと思っています。
その場所で起こったことに嘘偽りがなければ、そしてその後に残るものに嘘偽りがなければ全て真実で、そこに都合の良いことというのは存在しないということです。
僕は家族や仕事に関わらず、沢山の人に騙されて、利用されて、都合良く扱われて生きて来ましたが、僕自身は誰かを利用したことがありません。
だからこそ、僕の周りには今も沢山の信頼出来る仲間がいてくれていると思っています。(特に子供に好かれるところなんかはそういう意味が強いと思っている)
目の前で起こったことしか僕は興味がない。
僕はこの10月の間に、沢山の自分の人生で背負って来たものの変化を経験しました。
この30年ちょっとしか生きていない僕が、何十年も確執のあった存在と久しぶりにあったり、認められたりと、なんだか物凄い達成感を感じた1ヶ月がありました。
努力が報われたり、裏切りだと思ってたものが自分に対する尊敬に変わったりとか、自分自身が強くなれて進めたと思う一方で、生きる目的の消失からとてつもない虚無感に苛まれていたりもします。
それもこれも背負っていたものは全て「他人の人生」で、僕はそんな他人の人生を背負うことが自分の人生になっているような感じでした。
そんな状況になったからといって、状況がクリアになっただけで僕が背負っている状況は変わらないし、僕はただただ目の前に与えられた課題をこなして行くだけのような人生なのは変わりありません。
自分がどうなりたいか?ってことを考えていない僕にとって、自分のことしか背負えない人間ほど興味のない人間はいないので、少なからず自分を犠牲にしてでも繋がりたいと思える人を僕は命をかけて守っていきたいと思います。
一緒に頑張りましょう。
では、また明日。