【思い出の価値】親友とは何かについて本気で考えてみた。
どうも、コウタです。
京都を拠点に完全独学のフリーランスデザイナーとして活動し5年目となります。2016年から禁煙をキッカケに始めた毎日ランニングは1,400日(2020年10月現在)を突破しました。
今日は久しぶりに高校時代の友人達と集まって忘年会をする予定なんですが、よく考えたら5年ぶりとかの友達もいたりするんですよね。
それくらい全然会っていなくても僕にとっては友達で、この事実は揺るがないことなんです。
そういう風に考えた時に、僕と友達を繋いでいるのは「今」ではなくて「過去」なんだなと思えるようになりました。
ということで今回は、「思い出の価値」親友とは何かについて本気で考えてみたお話をしたいと思います。
親友という概念は僕にはない。
昔から「親友」という言葉に違和感があって、字のごとく親友とは「親しい友」であるんですが、、親しくないヤツは友達ですらないって感覚なんですよね。
屁理屈だと思うかもしれないんですけど、僕の中で親友という言葉は破綻していて、僕にとっては友達か友達じゃないかのどちらかで、それ以上でも以下でもないんですね。
要するに、友達以外の人に関しては、嫌いという感覚すらなく「興味がない」といった存在になるわけです。
勘違いしてる人は多いと思うんですが、「嫌い」って言っちゃうってことは少しは気になっている存在になってしまうので、嫌いを通り越して興味がないというのは自分の中に存在すらしていないということになるんです。
僕にとっての友達の基準。
僕が友達だと思っていても、相手が本気で友達と思ってくれているのかは分からないので、一概にもそういう存在だということを断言出来ないのかもしれません。
ですが、僕の感覚としては本当の友達には「無理に会う必要がない」ということは言えると思います。
例え半年に1回でも、数年に1回であっても会う頻度は関係なく、自分が本当に困った時とかに手を差し伸べてくれたり、相談に乗ってくれる存在こそが友達と思ってるんですね。
そういう友達って、久しぶに会ったとしても久しぶりの感覚はないし、会っていなくても心は通じていて、一緒の空間にいてもめちゃくちゃ楽な存在なんですね。
これは男の感覚なのかもしれないですが、有名な言葉で「その人と一緒にいて沈黙に耐えられるか?」という答えが、本当の友達なんだと僕は思っています。
人付き合いにおいて馴れ合いは時間のムダ。
僕はそんな感じで、人付き合いで媚びは売らないし、興味のないヤツに対しては、タイミングが合えば面と向かってそれを伝えることになんの躊躇もありません。(だって嫌われても良いんだもん)
それは、上司であろうが先輩であろうが全く関係なく、明らかにおかしいと思うことは伝えるし、そこで馴れ合いなんか絶対にやらないんです。
そこで馴れ合いをやってしまうと、結局しんどくなるのは自分の方だし、そもそもそんな価値観で人と付き合っていることに何のメリットもないですよね。
仕事で例えるなら、きっと多くの人は、会社に勤めながらハッキリと自分の意見を言えないまま我慢して、「言える訳がない」とリストラの恐怖に怯えながら消耗し続けてる感じです。
そんなギクシャクした人間関係を維持しようとする方が時間のムダなんで、僕は結構好き嫌い(興味がない)がハッキリしているんですね。
フィーリングが合う人間だけと付き合えば問題ない。
ここまでの内容だけ見ればただの薄情者に感じると思うんですが、その反対に人情に厚く、大切な存在に対してはトコトン尽くすのが僕のスタイルなんです。
人生は1度きりなんで、どうしても時間は大切なので、どうでも良い人に付き合ってる暇なんてないですよね。
そういう意味で僕は、フィーリングが合う人間だけと付き合えば良いと思うし、その代わりそういう友達は心から大切にしていくことが重要なんじゃないかなと思っています。
そんなこんなで友達は多い方じゃないとは思うんですが、僕と奇跡的に繋がってもらえた方々の縁を大切に生きていければと思います。
一緒に頑張りましょう。
では、またね。